平原草々の日記

思ったこと、音楽、本の感想など

二十一週間

ブログを始めてから二十一週間が経ちました。

仕事、生活ともに特に変わりなく過ごしています。

4月は大きな変化がありましたが、いろいろな人に助けていただき、無事に乗り越えることができました。

5月以降は、少しずつ自分のできることを増やして、よりよい仕事をしていくことを目標にしていきたいと思っています。

ブログもなんとはなしに書いていて、本に対する興味もまた湧いてきました。

5月も引き続きいろいろな話題について書いていきたいと思っています。

ドヴォルザークの「交響曲第9番 新世界より」

ドヴォルザークの「交響曲第9番 ホ短調 作品95 新世界より」は、私が子どもの頃、クラシック音楽を聴き始めて、最初に好きになった曲の一つです。

なぜ、この曲を聴こうと思ったのか今では思い出せませんが、おそらく第4楽章の有名なメロディーが、何かのCMに使われていて、それでこの曲の存在を知って、聴くようになったのではないかと思います。

それとも、第2楽章の有名な旋律(遠き山に日は落ちて)が、小学校の下校の音楽になっていたので、それで興味を持ったのかもしれません。

最初から聴き始めると、開拓時代のアメリカの雰囲気を思わせる第1楽章が特に好きになって、なんて素敵な曲なんだろうと思って聴いていました。

第2楽章の有名な旋律も好きでしたが、第3楽章の決然とした表現が好きで、この楽章も子どもながらにかっこいいと思って聴いていました。

第4楽章も、雄大な第1主題が有名ですが、やはりどこか懐かしい感じを思わせる雰囲気があり、特に最後の方の静かになる部分が好きでした。

以前の記事でも触れたことがありますが、私がはじめて買ってもらったオーケストラのミニスコアの一つがこの曲で、楽譜を眺めながら何回も何回も聴いた記憶があります。

また、のちに私は、この曲やブラームス交響曲第4番、チャイコフスキー交響曲第5番と、ホ短調の曲が好きだということを発見し、これを通して調性というものに興味を持つきっかけとなりました。

演奏は、子どもの時に聴いた、バーンスタイン/ニューヨークフィルのものが思い出深いですが、最近は、パーヴォ・ヤルヴィ/ロイヤルフィルのものや、インバル/フィルハーモニア管のものなどを聴いています。

マーラーなどの音楽を聴くようになると、この作品が、少し軽い感じに思われて、あまり聴くことがなくなりましたが、この記事を書くために聴き返してみましたが、旧友に再会したような懐かしい感に打たれて、この曲が、やはり、私のクラシック音楽体験の原点の中の一つだと改めて思いました。

吉増剛造『詩をポケットに』

吉増剛造さんの『詩をポケットに』(NHKライブラリー)を紹介します。
この本は、吉増さんが愛する詩人たちについて、講演原稿のような口語文、パウル・ツェランの「子午線」を思わせるような口調と、詩人らしい豊富な語彙、比喩表現が合わさった文章で語った、それ自体が一篇の散文詩のような、大変美しい本になっています。
ゆったりとした歩みと、粘り強い思索から生み出される一文一文は、すっと読み飛ばすことをゆるさない密度を備えていますが、決して難解ではなく、詩について考える上でのさまざまなヒントを、そっと提示してくれます。
ここに紹介されるどの詩人たちも、とても興味深く、素晴らしい作品を残していますが、私が読んだ中では、萩原朔太郎の詩の印象が強く残っています。
私が言うまでもないですが、萩原朔太郎が現代に至るまでの口語詩に残している影響は大変大きいと思われます。それは、視覚的イメージももちろんありますが、どちらかというと、音感、あるいは音調といった部分でより顕著ではないかと考えています。
若い頃は、萩原朔太郎の詩の音調が不気味なものに思え、怯えにも似た恐怖感を抱いていたものですが、最近は、それが一種の「のすたるじや」のように感じられて、より親しみを込めて読むことができるようになったと感じています。そして、それにつれて、朔太郎の詩の素晴らしさが、より身近に感じられるようになったと思います。
この本も萩原朔太郎から始まって、いろいろな詩人たちが紹介されています。この本の中において、吉増さんの基底音にも、朔太郎の音感があるように感じました。
とにかく、いろいろな作品に触れることができますし、その紹介自体が詩作品に感じられるという、詩に興味を持っている人にとっては、とても良い入り口になりますし、詩を書く人にとっては、とても参考になるという、いろいろな面で素晴らしい本だと思います。

カフカの「田舎の婚礼準備」

カフカの、いわゆる「田舎の婚礼準備」というタイトルで知られている断片を紹介します。

この作品は、カフカの初期の作品で、長編に発展する余地があるように思えるのですが、途中で中断されています。

私がこの作品を知ったのは、学生時代に筑摩書房から出ていた「文学のすすめ」という本で、丹生谷貴志さんが、ブックガイドの中で、「近代文学の狂気(?)」として、この作品を「不思議な視線の乱調」と紹介されていたのを読んで興味を持ったからです。

それまでは、主要な作品しか読んだことがなく、また、この作品は入手が難しかったので、図書館でカフカ全集を借りて読みました。

ちなみに、この筑摩書房の「文学のすすめ」は、執筆陣も豪華で、巻末に蓮實重彦さんと松浦寿輝さんの対談もあったりして、とても濃密な一冊であると思っているので、ぜひ、ちくま学芸文庫かなにかで再刊してほしいと思っています。

また、丹生谷貴志さんは、その頃の私が一番好んで読んでいた著述家であり、丹生谷さんが紹介される書籍はできるだけ読もうと頑張っていたものです。

そして、この「田舎の婚礼準備」を読んだのですが、たしかに、冒頭の雨の降っている街の描写から、映画でいえば、頻回にカメラが切り替わるような、また、さまざまな細部を偏執狂的に描こうとするような、不思議な視点の変化が見られます。

あらすじは、主人公ラバーンが、婚約者の待つ田舎へ、汽車に乗って向かうという流れですが、さすがに一筋縄では行かない、カフカ的な世界になっており、ことはなかなかスムーズには運びません。

しかし、初期の作品とあって、リアリズムの度合いも強いように感じられ、これが、カフカ的世界に組み込まれると、現実世界における、一種の錯乱した彷徨といった色合いを帯びているように感じることになります。後年の寓話的世界というよりも、現実世界の喧騒の中での先延ばし、迂回といった感じを受け、その後のカフカの作品とは若干様子が違うように思います。

物語は、途中原稿の欠落も挟みながら、田舎の旅館についたところで終わっています。都会と田舎の対比、主人公と婚約者との関係など、今後いろいろな展開が期待できる要素を残しながらも中断しているので、もし、カフカが、この作品を書き継いでいたなら、後年の作品とは異なったタイプの傑作になったのではないかと思われます。

その後、ちくま文庫の「カフカ・セレクション」シリーズの中の第1巻に収められたもの「(エードゥアルト・ラバーンは、廊下を抜けて)」でも読みましたが、やはりこの断片には「田舎の婚礼準備」という、なんとも不思議な感じのタイトルが似合っているのではないかと思っています。この作品が未完成なのは本当に残念だと強く感じました。

時々ふと、冒頭のラバーンが玄関を出てからの、おそらくプラハの街を思わせる描写、雨の降る夕方の薄暗い街路を行きかう人々の描写が思い浮かんできます。

日記

休日の朝、どんよりと曇って雨が降っています。

こんな天気の日は、せっかくの休日なのに気分が沈んでしまいます。

本を読む気にもなれないし、音楽を聴く気にもなれない。

ピアノを少し乱暴に弾いてはすぐにやめて、

家の中をウロウロして、これを書いています。

こういう時に、落ち着いて何かを集中してすればいいと思うのですが、

なかなかしたいものが見つけられず、結局はどれも中途半端にして、

休日を終えてしまうことが多いです。

ただ、こうしてブログを書いていると、

書きながらいろいろなことを思い返して、静かに、物思いに耽ることができるので、

沈みがちな心を落ち着かせるには、いいツールだと思っています。

案外近くにでも出かけてみると気分が変わっていいかもしれません。

ちょっと傘をさして出かけてみようかなと思います。

日記

地方に住んでいると、いや地方に限らないかも知れませんが、自治会や地域の役などがあたることがあります。
今夜も、そんな役の集まりがあり、出席してきました。
ちなみに、私はこういった集まりが苦手であり、端的に大っ嫌いなんですが、浮世の義理があり、仕方ないから出ました。
勇気があれば、はなから出ないという手段もあるとは思いますが、意気地無しなので、腹では苦々しく毒づきながら、表面上は従順に座っていました。
しかし、こうした場でいつも思うのは、きちんと話し相手を見つけたり、自然に群れたりできるのは、一種の能力なんだということです。私は、こうした分野に関しては、まったく無能な人間です。
そもそも、自分から求めようとしないのがいけないのではないかとも思うのですが、反対に、皆が私を避けているようにも思い、それならそれで超然としていればいいのですが、心のどこかでは、つながりを求めたりしていて、楽しそうに歓談をしている人々をみては、卑屈な気持ちで過ごしています。
こんな調子なので、地域のつながりもないし、保護者同士の交流もないし、それはそれでほっといて欲しいとも思うのですが、役割だけはふられて、それについても、したいものだけが集まってすればいいのに、建前上か、すべての対象者に動員がかかり、出ないといけない空気があります。
それをふりきる勇気もなく、話し相手を作る能力もなく、今日も、愛想笑いをして一人でやり過ごしました。
まあ、自分のプライドが高いのが、やはり態度に出るから人が寄りつかないのかもしれません。それなのに都合よく求めるだけなのは卑怯かもしれません。
他人との軽いコミュニケーションをスマートにこなす人を見ると、嫉妬にも似た、悲しい気持ちになり、自分もあんな風になれたらいいなと思います。そうすれば、少しは溶け込めるのかもしれません。
そんなことを考えながら、面倒な役を喜んでやっているような人たちを見たり、親しげに毒づいたりしている人たちを見ていると、どちらの役割もできない自分はつくづくつまらない男だなと思いました。

うそつき

なんか、調子に乗るといらないことをしゃべっていけないです。戒めないといけないと思います。だいたいに、私はお調子者で慎重さがたりないです。興に乗ったら話を盛って、さも面白おかしくしようとするけど、本当はそんなに面白くないです。悲しいです。みっともないです。うわつく気持ちをうまく押さえて、思慮深くありたいものです。
むかし、いつものように興に乗ってしゃべっていて、自分でもしゃべりすぎかなと思っていた時、そばで聞いていた人から、小さな声で「うそつき」と言われたことがありました。その言葉は鋭く私の心をさして、一気に興も冷めて、でも、もう後には引けないので、ある程度しゃべって幕引きをしてから、恥ずかしさに顔から火が出そうになり、穴があったら入りたい気持ちになりました。
私は社交的な人間ではないので、いろいろな人と話をしないかわりに、話しやすい人には、とにかく自分のことを話したい、自分のことを聞いてほしい、私に興味をもってほしい、または、その人を喜ばせたいという一心から、大げさにしゃべる、しゃべりすぎる傾向があります。それが、きちんと聞く人が聞くと「うそつき」になると思います。
しかし、一度反省しても、また繰り返してしまうんですよね。なかなか、この性格はなおらないみたいです。
寡黙な中年に憧れるのですが、今日も、いらない軽口を叩いて、一人悦に入って、後から猛省しています。