平原草々の日記

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フロイト『精神分析入門』を読む①

フロイトの『精神分析入門』を読んでいきたいと思います。
新潮文庫高橋義孝・下坂幸三訳のものを読みます。
私の勉強と治療をかねて、少しずつ読んでいきます。
この本は、ほとんど全編に渡って深い洞察に満ちていると思っていますが、難解な部分も多いので、私が印象に残った部分を書き出したりして、私の中でいろいろと考えていきたいと思います。
完全に自分用のものですが、一応記事として残しておきます。誤り等があると思いますが、ご了承ください。
引用はすべて新潮文庫のものに拠ります。

第一講「序論」
フロイトは「分析治療では、分析を受ける者と医師との間には、言葉のやりとりがあるだけ」と言い、言葉が担う役割の大きさが強調されています。
「言葉はもともと魔術でした。言葉は、今日でもむかしの魔力をまだ充分に保存しています」
しかし、言葉は単にやり取りされるのではなく、患者と医師の間には、何か特別な関係が必要だと言われます。
「分析にとって必要な報告がえらえるのは、患者と医師との間に特別な感情の結びつきが成立した時にかぎります」
こういった事情のため、傍聴ができない精神分析を学ぶことの端緒は、自己分析から始まるとフロイトは言います。
精神分析はまず自分自身について、自分という人間を研究することによって習得される」
序論の最後には、精神分析の、人々から反感を買うだろうと言われながらも、大事な二つの命題が挙げられています。
「心的過程はそれ自体としては無意識的であり、意識的過程は心的全活動のたんに個々の作用面であり、部分であるにすぎない」
「性的なものと呼ぶよりほかはない欲動興奮が、神経と精神の病気の原因として、これまでは正しく評価されなかった大きな役割を果たしている」
「無意識」と「性的なもの」、この二つは密接に関係していると示唆されています。

第二講「錯誤行為」
ここで挙げられる行為は、以下の三系列あります。
・言い違い、書き違い、読み違い、聞き違い
・忘れること、度忘れ(人名、意図)
・置き忘れ、紛失、もの忘れ、思い違い
なぜこのようなものを考察するのかという議論の中で、フロイトは「精神分析の観察の材料は、現象界の屑のようなものから成り立っている」と語っています。
いろいろな言い違いの例証を挙げる中で、こうした言い違いをしてしまうこと自体に意味があると言います。
「言い違いが表明している内容そのものに意味があると言ってさしつかえない」
「言い違いの結果起こったことは、それ自身の目的を追求している一個の独自な心理的行為であり、またある内容と意味とを表現するものとして理解されてしかるべきものだということです」
そして、言い違いを含む「錯誤行為そのものも、それ自体において意味のある一つの行為」と言われます。

第三講「錯誤行為(つづき)」
ここでも、言い違いの例を引きながら、その過程を検証していきます。
「錯誤行為は決して偶然のものではなく、大真面目な心的行為であって、固有の意味をもち、二つの異なった意図の共働、いや、もっと適切にいえば相互の衝突の結果として生じたものなのです」
その後、錯誤行為の様々な例を挙げ、想定される反論に丁寧に答えながら論は進みます。
最後に、錯誤行為がもたらす前触れ、前兆に触れ、これを正しく解釈したら多くの幻滅やつらい打撃を回避することができるだろうにといいます。

第四講「錯誤行為(結び)」
錯誤行為の意味を認めるためには抵抗に勝たなくてはいけない。
「語り手の心の中には自分自身では全然気づいていない意向がいろいろと出てくることがあるが、私は間接証拠によってその意向を推測できる」
「二つの意向のうちの一つは、その実現を阻止されているからこそ、のちになって他の意向の妨害という道を通って自分の存在を告げ知らせる」
「現象を心の中のいろいろな勢力の角逐のしるしとして捉えること、すなわちときには協力し、ときには対抗しながら、ある目的を目ざして働いているもろもろの意向の現われとみたいのです。われわれは心的現象の力動的な把握を求めているのです」
最後に、ありふれた錯誤行為の、精神分析的解明に人々が激しく反対しようとする問題に触れますが、ここでは十分に触れないまま終わります。
錯誤行為の検討の中で、精神分析的な手法を紹介し、それに対する人々の抵抗まで紹介するなど、ここだけでもの盛りだくさんの内容に感じられます。

ここまでのまとめ
言葉の力の重要性。これは現代の自己啓発にも通じると思います。ナポレン・ヒルの『思考は現実化する』やマーフィーの潜在意識に語り掛ける方法など。
われわれを駆り立てる「無意識」と「性的なもの」、ここら辺は、表現主義などの世紀末の芸術なども絡めて考えてみたいです。
また、これは次の夢の作業の解釈についても言えますが、人々の心的過程を、まるで一つの作品のように解釈していく様子。実際に文学作品から例も挙げられますが、解釈学といったものにも通じるような世界があるように思います。