平原草々の日記

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ロラン・バルト「シューマンを愛する」

ロラン・バルトの「シューマンを愛する」という文章を紹介します。
私は、マルセル・ボーフィス著『シューマンのピアノ音楽』という書籍に序文として収められたもの(「シューマンを愛す」小坂裕子訳)と、『第三の意味』に収められたもの(「シューマンを愛する」沢崎浩平訳)で読みました。以下の引用は、沢崎浩平訳からのものです。
この文章は、短いながらもシューマンの音楽、特にピアノ音楽の本質を鋭く描いたものだと思っています。

バルトによれば、シューマンは、大衆の時代にあって、それとは相反する「自分自身に語りかける魂、恋をし、内に閉じこもった魂の音楽家」であると言われます。それは、「『母』に対する以外、何の絆も持たない子供の音楽家」であり、その音楽は、ベートーヴェン的な闘争の世界や、シューベルト的な脆弱な世界でもない、「分散していると同時に一元的な音楽であり、絶えず『母』の光り輝く影へと逃避する音楽である」と言います。

バルトは、自身の母に対する情の深さからか、あまりにも「母」に引っ張りすぎているような気もしますが、シューマンの音楽が持つ、自閉的な傾向、世界に対する独特な対峙の仕方(ある種の子供的な)というものが浮かび上がっているように思います。

そうした作品を再現するには、名人芸ではなく、「無垢」の技術が必要であり、それは、たとえ稚拙であっても、自ら奏でる演奏によって、その本質が開示されるような音楽だとバルトは言います。

「まるで、弾くたびに、その作品は一人の人のためにだけ、それを演奏する人のためにだけ書かれたかのようだ。真にシューマン的なピアニスト、それは私だ」

私も、自らシューマンを弾いてみて、この言葉の意味がとてもよくわかるように思います。
シューマンの作品を弾いていると、リズムが体の奥深くを「打つ」(これも重要な概念としてバルトは語っています)ような気がします。これは、CD等を聴くだけでは得られない、自ら鍵盤を叩くことによって得られる官能のようなものだと思います。
そして、さまざまな表題や指示記号が持つ意味、たとえば「語りかけるように(parlando)」という指示が持つ意味、または「フモール(ユーモア)をもって(Mit Humor)」という言葉の持つ意味など、バルトの言う通り、自ら弾くことによってこそ、その言わんとすることがわかってくるような音楽のように思います。

おそらく、弾ける弾けないということではなく、愛をもって繰り返し繰り返し奏でること(バルトは違う文章で、愛しているものについて、私は愛していると際限なく繰り返すしかないと語っています)、その中で心に語りかけてくる部分を感じとることが、シューマンという作曲家の音楽を愛する上で、重要なのではないかと思います。

短いなかにも重要な考察がたくさんつまった、なおかつ、大変美しい文章だと思います。