平原草々の日記

思ったこと、音楽、本の感想など

二十二週間

ブログを始めてから二十二週間が経ちました。

コロナ禍でおとなしく過ごす連休となりました。

最近は、働いている方が気持ちが楽なような気がします。

休日の過ごし方がうまく見つからず、なにもしないまま終わってしまったり、漠然とした不安な気持ちを抱いたりしていけません。

心落ち着けて、何かに取り組みたいと願っています。

この間、実家の田植えの手伝いに行きました。

濃い緑と水田に映る山々の景色、水と土と草の匂い。

やはりここが私の心のふるさとなんだと実感しました。

感慨に耽っていると、まっすぐに植えることが難しいので、

気を引き締めて、田植え機のハンドルを握っていました。

秋には、良い米が収穫できるといいです。

ブラームスの「交響曲第3番」

ブラームスの「交響曲第3番 ヘ長調 作品90」は、恋する心のような曲だと思います。

実際に、この曲を作るにあたって若い女性歌手との恋愛感情が反映されていると言われることもありますが、聴いていると、比較的ブラームスの感情が表に出ている作品のように感じます。

第1楽章の展開部の激しさや、クライマックスの高揚した盛り上がりはどこか感情の高まりを感じさせます。

第2楽章の田園に一人さまよう風情も、恋する男の彷徨が思われ、ベルリオーズ幻想交響曲の第3楽章みたいな雰囲気を思い浮かべたりします。

有名な第3楽章は、本当に映画音楽的とも言えるぐらいメロウな雰囲気に支配された美しい楽章だと思います。

第4楽章の、まるで雄たけびのような爆発力は、恋するものの狂態のような気配すら感じさせます。

しかし、そこはブラームス(?)、どの楽章も、どんなに感情が表に出ていようとも、最後は静かに終わるように、恋に身をやつそうとも、最終的には穏やかな孤独、諦念の世界に戻っていくような、そんな雰囲気も感じさせます。

以前、ブラームス交響曲では第4番が一番好きと書きましたが、今でも作品の完成度という観点から見れば、フォルムがしっかりとしている4番の方が上のように思いますが、最近は、心に寄り添うという点について、この曲の方が近い存在になっているように思います。

演奏は、スクロヴァチェフスキ/ハレ管弦楽団のものがとても素晴らしいと思っています。透明感あふれるオーケストラですが、感情の表出にも不足していません。またブラームス交響曲は管楽器の技量が試される場面が多いと思っていますが、どの楽器も素晴らしいアンサンブルを聞かせてくれます。

その対極とも言えるのが、フルトヴェングラーベルリンフィルの1949年12月18日の録音です。録音も古く、観客の咳が多いのも気になりますが、凄まじい緩急と情念で、この曲の感情の高まり、あるいは狂気ともいえる側面を見事に描き出していると思います。

それに続くのが、私の中ではヴァント/北ドイツ放送響のスタジオ録音のもの、ケルテス/ウィーンフィルのものです。

他には、セル/クリーヴランド管のものも素晴らしいと思っていますが、第1楽章の提示部の反復がないのが気になります。

学生時代に、第4番にハマってCDを集めていく中で、多くはこの第3番とカップリングになっているものでした。なので、私にとって、この第3番も青春の1曲みたいなものでした。あるいは、第3番と第4番とセットで、青春の一枚のように感じていたのかもしれません。今思えば、あるいは、第4番以上にこちらの曲の方が「青春」に近かったのかもしれません。

そのためか、年を取ってからは、第4番はほとんど聴き返さなくなりましたが、この第3番は今でも聴き返します。その懐かしさから、私の中の失われた青春を追憶するかのように・・・。

 

追記

この記事を書くために、いろいろな演奏を聴いてみたのですが、フルトヴェングラーの演奏が放つ凄まじい力は一種特別なものだと感じ入りました。

最近は、古い録音のものを聴くことがほとんどなかったのですが、これを機に、昔は熱心に集めたりしていたのですが、最近はほとんど聴かなくなった、古い時代の録音をひっぱりだしていろいろと聴いてみたくなりました。

三浦哲郎「たきび」

三浦哲郎さんの短編「たきび」を紹介します。
この作品には、学生時代に模試の小説の問題として出会いました。
どこか忘れがたい、甘い感傷を誘う掌編だったので、その後、この作品が収められた、新潮文庫の短編集モザイクⅡ『ふなうた』を購入して改めて読みました。
この短編集は、短いなかにも人間の機微を繊細に織り込んだ作品がならんだ、滋味豊かな作品集であり、平易な文章ながら、職人技を思わせる無駄の無さで、現代日本語の短編集としては一級品であると感じています。
この「たきび」は、たきびをとおして結ばれた夫婦の話ですが、その内容、ストーリーの運びかた、文章の洗練、どれをとってもため息が出るほど巧みに書かれた作品だと思います。
二人が結ばれるきっかけとなった出来事は悲惨でも、それを乗り越えた二人はきっと平凡ではあっても、幸福だったのだろうと思います。
こんな短編が書けたら素敵だろうなと思いますが、この短編集にはそんな作品が並んでいて、とても素晴らしいと感じています。
私は文庫本でこの2巻目しか所有していないのですが、今は完本版が単行本で発売されているということなので、買って読んでみようかなと思っています。

日記

連休もあと二日となりました。
今日は、家の小さな畑を耕しています。
土をかまうのはいいですね。
ちょっと気持ちが穏やかになります。
野菜苗を数本植えようと思います。
植物は不思議です。
土と水と光。
とても単純だけど、とても大切なもの。
私も大切にしたいと思います。

言葉について③

僕が語ることが、彼女にとっての真実となるように、

彼女が語ることが、僕にとっての真実になる。

つまり、僕たちは他者の言葉でしか自らの真実に辿り着けないということ。

だから僕は、ひたすら彼女について語ることしかできない。

そして、彼女に僕のことを語らしめなければならない。

彼女の言葉で書く努力をしないといけないだろう。

僕はただひたすら彼女の面影を追うばかりだ。

「僕」の姿をまとった彼女に欺かれないようにしないといけない。

あるいは「彼女」の姿をまとった僕に欺かれないようにしないといけない。

まったき他者の言葉で語らなければならない。

世界の真実を開く彼女の歌声のように。

僕の苦しみを、彼女の苦しみとして語らしめ、

彼女の苦しみこそ、僕の苦しみとして引き受けないといけない。

世界は憂鬱か?

なんでそこまで私が言う必要があるのだろう。

君にとっての世界が憂鬱なら、君の世界は憂鬱に満ちている。

君にとっての世界が崩壊したなら、君の世界は崩壊している。

なら、彼女の世界はどうか?

彼女の世界は保たれている。輝いてすら見える。

なぜなら彼女自身が真実であり、彼女自身が虚無だからだ。

だから僕は彼女に真実を盛ろう。

そして、彼女に真実を語らそう。

たとえそれが、僕にとって崩壊した世界だったとしても。

日記

現実は変わるのか?変わらないのか?変えられるのか?変えられないのか?
苦しみはなくなるのか?なくならないのか?減るのか?増えるのか?
その答えは私の生き方で変わるものだろう。
私が能動的に動けば世界は変わるだろう。
私が受動的にしか動かないなら世界はそんなに変わらないだろう。
それなら動けば現実が変わって私にとって良い方向になるのかと言ったら、それはわからないだろう。
それならエネルギーを使わずに動かずに待機してやり過ごす方がいいのか?それもわからないだろう。
こうしたことを書くことで現実は変わるのか?苦しみから逃れられるのか?
おそらく、書くだけで行動をしなかったら、世界に身体をもって働きかけなければ、観念は変えれても、現実や苦しさは変えられないだろう。
私は恐れている。何よりも他者を。
私に恐怖を与える他者を。
だから他者なき世界で、静かに一人で生きていたいと願っている。
そう思うなら、世捨て人となり一人で生きていればいいのかもしれない。
あるいは、他者に働きかけて、他者を変えるか、それとも排除するか。
それを選ぶのも私の行動にかかっている。
あとは勇気の問題か。
恐れるな、ゆけ、ということか。
しかし、それが一番難しいか。
やはり、嫌な気持ちを抱えて、苦々しく生きていくしかないのか?
うーん、わからない。
どうしたら、心静かに生きていくことかできるだろうか。
とりあえず、書くことで観念だけでも変化させてみよう。
あるいは、観念から世界を変えることができるかもしれない。観念から苦しみをなくし、喜びに変えることができるかもしれない。
もっと書かないといけない。
もっと考えて書かないといけない。

エヴァンゲリオンと私について

シン・エヴァンゲリオン劇場版を観ました。

私がエヴァンゲリオンに出会ったのは、テレビシリーズの再放送を見た時でした。
その当時から、すごい人気になっているのは知っていましたが、私は、リアルタイムでは見る機会がなく、それでも、東浩紀さんの論考などを読んで、なんとなく気になる存在にはなっていました。

それがたまたま、再放送でやっているのを見つけて、しかし気づくのが遅かったので、見たのが第17話の途中からだったのですが、学校の屋上でのシーン、ケンスケとシンジが会話をしてるシーンから見始めて、このワンシーンだけで、これはすごい作品だとすぐにわかり、さらに後半の展開を見て、強い衝撃を受けました。

それからはきちんと見ていきました。ちょうど物語が佳境に入るところなので、どの回も30分アニメとは思えない濃密な展開と重いストーリーで、本当に打ちのめされるような思いで見ていきました。

最終2話については、事前にその噂は耳にしていたので、そこまでのショックはありませんでしたが、やはり私の中では、カヲルとのエピソードである第24話で、テレビシリーズのエヴァは終わったものだと思ったものです。

その後、第1話から見返しましたが、私が見始めた第17話以降の濃い要素はまだ出てこないので、普通に面白いロボットアニメというぐらいの感想しか持たず、私の中でのエヴァンゲリオンとは、テレビシリーズの第17話から第24話までで形成されていると思っていました。

そして、シナリオ集の全3巻もあつめて、これも何回も読み返して、その度に、文字だけでもすごいなと感嘆しながら読んでいました。

その後の劇場版での展開については、一応すべて観ましたが、テレビシリーズで受けた衝撃を上まわるものは得られず、私の中のエヴァは、テレビシリーズの後半部分で終わったままの気分でいました。


そして、最終作と言われるシン・エヴァンゲリオン劇場版を観ました。

私の中でのエヴァに、どのような結末が来るのか、楽しみ半分怖いもの見たさ半分で観ました。

第一印象は、やはり、あの時の衝撃を超えるものは得られなかったなというものでした。

最初に観てから25年以上も経ち、私自身も年老いた中で、おそらく思春期というものを正面に捉えた作品の結末は、どのような展開を持ってきても、もはやあの時の衝撃を上まわるものにはならないだろうなという気持ちを一番大きく感じました。

もちろん、作品の完成度はとても高く、最後まで面白く観ることができ、その結末もこのシリーズを追いかけてきたものにとっては納得のいくものだったと思いましたが、私の中の青春の一コマ、ひとつの沁みのようなものになっていたエヴァの衝撃とは、もはや同じ色に染まることはないのだなという悲しい気持ちも片方では感じていました。

おっさんの感傷と言えばそれまでですが、心のどこかで、たとえ少しでも、あの時の衝撃の再来を願っていた中で、やはりそれは、もはや二度と得られないものかなとも思いました。

しかし、長きにわたって人気を保っており、私の子供もハマっているという世代を超えたエヴァ人気はとてつもないものだと思いますし、どの作品も完成度の高さはすばらしく、エンターテイメントとしてもとても優れたものだと思います。

当たり前の話ではありますが、おそらく、見る人一人一人の出会い方、そのタイミングで、その作品の捉え方、愛情の持ち方は変わるもので、私にとっては、第17話~第24話までのエヴァが、私にとってのエヴァであり、そこにこの作品の衝撃、愛着のすべてがそそぎこまれていると感じています。

この記事を書くにあたって、久しぶりにシナリオ集を引っ張りだしてきて、文字を追いながら、アニメの映像を思い浮かべ、懐かしくテレビ版のエヴァを再構成して楽しんでみました。