(考えるためのメモ帳がわりの殴り書きです)
美しい音楽を聴いていると心がゆすぶられる気持ちになる。
それは、私の「存在」自体をもゆすぶっているように感じる。
この音楽に溺れたい、この音楽が喚起する風景の中で生きていたいと思う。
しかし、距離をとれば、現実の私が、何も変わらない私が、そこにぽつねんといる。
この世界に、この私が、この私として生きていることの不思議。
私という存在が今ここにあることの不思議に、めまいを覚える。
音楽が呼び覚ましてくれる万能感、多幸感、官能、そういったものと、この現実の私の卑小さ、否定性、不感は、いったいどういった関係にあるのだろう?
「美」というものがもたらしてくれる「快」が、私を変容させるのだろうか?
感性の問題、感じることがもたらす私への影響と、ここにある私との乖離。
しかし、ここにある「私」も、一面的なものではないと思う。
現実的、社会的、身体的な私は、この世界の中にあって、他者や外界との関係性の中にあって、物質的な身体をともなって「ある」ということになるだろう。
しかし、名前を付けられ、輪郭を持ち、ラベリングされた私であっても、すべて受動的なわけではなく、私から世界に赴いていって、世界を変容させることができるとも思う。
世界との交渉は、まず感覚から始まると思う。
ユクスキュルの「環世界」の考え方が参考になるのではないか。
感性的独我論の世界。
幼児の世界といってもいいのかもしれない。
本能と感覚が支配する世界。
しかし、それがすべての存在の根底にあるのだと思う。
そこから、知性的な主体や、社会的な主体が立ち上がるのだと思う。
ヒューム?
または、そういった面で、マズローの欲求階層説との関連も見えてくる。
社会化した主体と感性的な自我の衝突が、長じた後の、社会の中での生きづらさにつながるのではないかと思う。
ASDの方などの、コミュニケーションの困難の一端は、ここにあるのではないかとも考える。
過敏な感覚、他者の意図を読み取ることが苦手、感性的独我論の中での生。
しかし、自閉症の方は、自閉症の方の気持ちがわかる強みもあるのではとの研究もあり、あくまで、環世界の違いという面もあるかもしれない。
また、私たち一つの存在は、碁盤の上の一つの碁石のように、その場所や、周りの石たちとの関係性の中で、その在り様が変わってくる。
社会的に固定されたと思われる主体でも、その位置は可変的であり、如何様にも変化させることができる。
今ある自分、今住んでいるところ、今ある環境、今ある人間関係、それらがすべてではなく、私は、私の存在は、何にでも生成可能であることが、ミニマムな倫理なのだと思う。
そして、「ワクワクすること」「喜び」を求め続けることが、私の存在の目標なのだと思う。
欲動、享楽?
哲学や心理学、精神分析、史学、社会学、文化人類学、文学、あるいは医学など、人間について研究する学問は、その根底に、人間の存在の究明へ向けた問いかけがあると思われる。
ちょっと、ここからは私個人のことを考えてみたい。
なぜ音楽を聴いて、「これは美しい」と感じることができるのか?
それが、私の疑問の出発点だった。
ぼおーっと、夢見るような間抜けな表情で音楽に聴き入っていた少年時代に、なぜ、これが私の心を気持ちよくしてくれるのだろうかと考えていた。
それは、子供の官能といったものとも結びついて、おそらく性的快感などへも通じるものがあったのだと思う。
そして、詩や物語を読んで感じた、言語からもたらされる官能もあった。
感性や快などと言い出したら、性の問題に行き着くと思うし、それが「存在」の大きなウェイトであるというのも事実だと考える。
やはり、フロイトはすごいという話になるのかな。
また、カントの『判断力批判』も読んでみたい。
感覚から始まること。
生理的な欲求の解消がもたらす満足。
そこから、社会的なシステムの一部であることを、だんだんと学んでいく。
エディプス、発達段階、制度、学習などを通して、快の世界から、少しずつ枠に嵌められていく。
道徳やルールを押し付けられるようになる。
もちろん、安定した世界を目指すなら、感覚だけが頼りの多形倒錯的な存在より、それぞれの社会の規範の枠によって成形された存在の方が安心だし、統御しやすいということも考えられる。
ごめん、今ちょっと仕事でイライラしている。
思った通りに行かないのが一番。
他者の動きが私の意に添わないのがムカつく。
そして、落ち着かない。
じっくりと落ち着いて大人の風格で余裕たっぷりに仕事しているはずの私が、ちょっとしたことにイライラして、ムカムカしていますよ。
ちょっと気になるあの人が私に振り向いてくれないのが悲しいし、みんな好き勝手に動いて私の都合などお構いなしで、私に謝罪すらしないのが歯がゆいぜ。
と、書いて落ち着いたので仕事します。
やっぱりうまくいかない。
怒りのあとは、それを埋めるかのような自己嫌悪。
いや、おまえの仕事しなささが原因じゃないの?
そんな仕事しかしてないおまえに、他の人を怒る資格なんてあるの?
すべてはおまえの無能と小ささが引き寄せたものだから、おまえ自身が責任を取れよ、ということなんだと思います。
なんか、めっちゃ落ち込んだ仕事終わり。
あの人は話しかけてくれなかったし。
帰宅。
充実した疲れではなく、徒労感。
上手くいかなかった感を引きずったままの仕事終わり。
うーん週末でこれは響くね。
これもまた「ある」の一様態かな。
どこまでいったっけ?
存在の不思議について考えているけど、現にあるようにあるとしたら、唯物論や現象学の領域になるのかな?
心の領域に踏み込めば、心理学や精神分析になる。
本質ってことを言い出せば哲学かな?
うーん、先に進まない。
今、これを書いているよ、私は。
これを書きつつある私は過去の私から未来への私に向けて、留まることを知らない進行を続けているってこと。
今考えたことも、一秒先には、違う色合い、違う意味合いを持つようになる。
そして、この時の進行は止まらない。
個人的には、その死まで、続くのだろう。
時間の経過と存在の本質。
持続ってことかな?
イマージュに取り巻かれた世界。
やっぱりベルクソンの『物質と記憶』を読まないといけないかな。
後、漱石の「文芸の哲学的基礎」も。
結局、あまりきちんと考えられずに今日が終わる。
祈りながら眠ります。