部屋の片隅の光っている場所

思ったこと、音楽、本の感想など

『バシャールのワクワクの使い方 実践篇』

本田健さん監修の『バシャールのワクワクの使い方 実践篇』(VOICE新書)を読みました。

新書サイズですが、ハードカバーのしっかりとした作りの本です。

一ページあたりの文字数が少ないので、あっという間に読み終わることができました。

 

バシャールについては、あまり詳しくないのですが、エイブラハムなどと同じように、人間の媒体を通してメッセージを送る存在ということだと思います。

この本は、そのバシャールのメッセージの中から、ワクワクについての箇所を抜き出して、まとめたものになります。

 

読んでみると、なんだか、エイブラハム本のエッセンスがこの本に集約されているような感じがし、この本一冊でも充分じゃないかなと感じました。

しかし、それは、何冊もエイブラハム本を読んできたから言えることかも知れなくて、いきなりこの本だけだと、エッセンス過ぎて、かえってわかりにくいこともあるかもしれないなと思う部分もあります。

 

ワクワクとは、「ecitement」の訳みたいですが、日本語のワクワクだと、なんていうか、ミニマムな喜びの集積みたいに感じられて、親しみやすいような感じがして好きです。

普段からワクワクを絶やさずに生きていければいいと思いますが、危機的な状況や、八方塞がりみたいな状況でも、ワクワクしながら乗り切れたらいいなと思います。

先日記事にしたバグワン(OSHO)の『生命の歓喜』の中でも、同じような考え方が説かれていたような気もします。

ワクワクしながら生きるのって、とても素敵だと思いますし、幸福な人生にとって大事な要素だと思いますので、私もこの本を手元に置いて、折に触れて読み返しながら、ワクワクを心がけていきたいと思いました。

2026/10/11(日)

三連休の中日。

この一週間は、いろいろな出来事がありました。

仕事では、トラブルが相次いで、ミスしたり、イベントがあったり、気の重い役割をしたりと、いろいろありましたが、周囲の方々に助けられて、なんとか乗り切れたのではないかと思っています。

しんどくなると、ついつい他責的になり、他人を恨んで自暴自棄になりやすい性格の私ですが、結局は、私自身の前に進もうとする心構えと、周りの人を信じてお願いすることでしか、苦しい状況を打破する方法はないような気がしました。

12月の調査については、完全に開き直りモードに入っています。

来るなら来いや、という意気込みですが、空元気とも言えますし、向こう見ずとも言えますし、無責任とも言えます。

まあ、最善を尽くす、としか言えないかなと思います。

 

秋になり、過ごしやすくなると、読書に励みたい気持ちになるのですが、買う本のスピードに読書が追い付いていない状況です。

読みたい気持ちはあるのですが、眼の調子が今一つということもあり、なかなかスムーズな読書になっていません。

私がよく読んでいるブログの方は、ものすごいペースで読書をされていて、どうやったらそんなに速く読むことができるのか教えていただきたい気持ちになります。

まあ、私なりのペースで読んでいくしかないとは思うのですが、読みたい本の山を見ては、これを読み切るのはいつになることやらと思ったりしています。

実りある読書の秋にしたいなと思います。

『生命の歓喜 バグワン・シュリ・ラジネーシとの対話 ダルシャン日誌』

『生命の歓喜 バグワン・シュリ・ラジネーシとの対話 ダルシャン日誌』スワミ・プレム・プラブッダ訳(ラジネーシ・パブリケイション・ジャパンRPJ発行・めるくまーく発売)を読みました。原題は、『Dance Your Way To God』であり、これは、バグワン・シュリ・ラジネーシ(OSHO)が、その弟子たちと対話した「ダルシャン」の記録集となっています。

ダルシャンの記録(Darshan Diaries)は、この本の後記に記載されている情報では、1975年12月10日から1977年1月31日まであり、全部で15冊の本になっているようですが、この『Dance Your Way To God』は、一連のダルシャンのうち、1976年7月28日から8月20日までの記録となっています(ちなみにOSHOの公式サイト(?)では、このダルシャン記録のすべての英語著作が読めるようになっているようで、そこには以降の記録もあり、全部で35冊分の記録が読めるようになっています)。

おそらく、私が調べた中では、ダルシャン記録の日本語版は、単行本としてはこの『生命の歓喜』しかないと思うのですが、この一冊だけでも、めちゃくちゃ素晴らしい本であり、こんな本が、後34冊もあると思うと、本当に英語をきちんと勉強して、全部読まなければ!と思わせるぐらい、心に強く響く本だと思っています。

 

「2026/9/20(日)」の記事の中でも書いたのですが、この本は、古本屋の店前のワゴンに雑多な本に交じって並んでいました。

異彩を放つ(?)背表紙に眼を奪われて手に取ったところ、最初はバグワン・シュリ・ラジネーシと書いてあり、誰のことだかわからなかったのですが、後ろに『存在の詩』のことが記載されており、ああ、これはあのOSHOの本なんだと気づきました。

中を開けてみると、どうも対話篇のようであり、語り口調のとても読みやすそうな本だなと思ってパラパラとめくって、ふと手が止まったページを読み始めた途端に、本当に雷に打たれたかのような衝撃をうけました。

ちょっと長いですが、とても素敵な部分なので、引用してみます。

もし、病気を楽しみはじめれば、君は病気にも健康と同じくらい大切な、それなりのよろこびがあるということに、ただただびっくりしてしまうことだろう。それはちょうど、歩いているときに雨が降り出すようなものだ。そのとき、それを問題にしてしまうこともできるし、それを楽しむこともできる。それはあなたの姿勢にかかっている。

あなたは「服が濡れてしまうわ。今日は新しい靴を履いているのに駄目になってしまう。」と考えることもできる。あなたは頭をかかえてしまうーーそして、何か途方もなくビューティフルなものを取り逃がしているのだ。あるいは、あなたはただリラックスして、雨に降らせることもできる。その音楽を楽しみはじめることもできる。自分に降りかかっ(て)くる雨のしずくーーその肌ざわりやその冷たさやその自由ーーするとまったく新しい情景があなたを取り囲む。あなたはリラックスして、それを楽しみはじめる・・・。あなたはそれを大切にするだろう。君のハートの中の何かが開きはじめて、もう靴が濡れるだとか、風邪をひくかもしれないだとかいう馬鹿みたいなものごとにはわずらわされない。ああだこうだと・・・まったく馬鹿げたものごとだ。

限りない美があなたの上に降り注いでいる。リラックスして、ただただ何が起こっているのかを見守ることができれば、そしてそのよろこびを味わうことができれば、限りなく多くのものが手にはいる。突如として、視野全体が変わっている。もうあなたは、いままで一度も知らなかったような快感に出くわさないとも限らない。そうなったら、あなたはそれを心待ちにしかねない。いつ雨が降って、外に出て雨の中を歩けるかーー。ときには風邪をひくことすらあるかもしれない。そんなことは何でもない。それだけの価値がある。それに、もし風邪をひくと思っていなければ、風邪などひきはしないだろう。だから、とにかくものごとをごくごくハッピーな見方で見はじめてごらん。

何であれいま起こっていることの中に、そこにあるに違いない何かビューティフルなものを見出そうとしてごらん。それをあばいてごらん。それを発見してごらん。けっして何ひとつ求めない人間というのは、必ず神からのたくさんの贈り物をもらうのだ。 1976.8.9 Monday (p230-231)

ちなみに、英語版ではChapter13の85ページにこの文章があります。

 

これを読んだら、もう買って帰って読まずにはいられませんでした。

そして、期待にたがわず、どのページも素晴らしい言葉にみちていました。

こんな本が、1980年に日本で出版されていたなんて、私は、もっと早くこの本に出会っていたかったと心から思いました。

私のもとに来てくれたことに感謝するとともに、バグワンの教えとともに、今はサンニャーシンになることはできませんが、いつも心開いて出来事に向かい合い、できるだけハッピーな見方で眺めたいと思いました。

So just start looking at things in a very very happy way.

 

自分はいるーーそれで充分だ。たとえ一瞬であれ、自分がいるーー。その感謝を表す方法など何もない。p85

存在の根幹。

そして、次の言葉は、いつも心にとどめて、これからの人生に向かいたいと思います。

いつでもいい、自分に直面すべき挑戦を与えてくれるような機会が来たら、勇気を出してそれに直面することだ。直面することによって、君はそれを超越するだろう。それと戦うことによって、その状況に果敢な戦いを挑むことによって、君は切れ味のよい意識、自分の中のある生気に到達することだろう。その状況を克服したとき、君は本当に実に生き生きとした感じがするだろう。さもないと、人は鈍くなってしまう。だんだんと死んだも同然になってしまう。p134

本当に素晴らしい教え、輝かしい言葉に満ちた一冊だと思います。

私は、『存在の詩』を読んだとき以上の心の高揚を、まさに「生命の歓喜」を、この本から感じました。

バグワン(OSHO)と出会えたことに感謝するとともに、その教えとともに、これからも生きていきたいと強く感じました。

2026/10/4(日)

絶不調です。

すべての浮わつきが、調子こきが、気持ちいいほど叩きつけられました。

全部、自業自得なんですが、これを一人で引き受けるのは、さすがにきついです。

しかし、私の落ち度を、不備を、いたらなさを、すべて受け止めて、そこからやり直すしかないです。

過ぎてしまった時間は、取り戻せないですから。

そして、やり直しがきちんとしたら、けじめをつけないといけないと思います。

それが、どんな形になるのかわかりませんが、心を開いて、すべてを受け止めるしかないです。

口では、謙虚とか、一つずつ何て言いながら、その実、何もできていませんでした。

今までのことを、すべてゼロから立て直さないといけないと思います。

今ここに集中して、リラックスして、訪れるものを分け隔てなく、喜びとして受け入れる気持ちで望みたいと思います。

そう、世界の可能性は、まだ無限に開かれていると信じて、大きく大きく待ちたいと思います。

こんなに厳しい状況の中で、絶望的な思いに襲われ、すべてがダメになって、激しく叩きのめされて、全員が私を責めて嘲笑うさましか思い浮かばない苦しい時もありますが、新しい始まりに向けて、心を切り替え、喜ばしい希望を感じる時もあります。

おそらく、この二ヶ月は、本当に苦しい中でのたうち回って過ぎるのだと思いますが、いつも心に、光と喜びとワクワクを感じて乗り越えていきたいと思います。

この試練に感謝できるよう、精一杯できることをしていきたいと思います。

2026/10/3(土)「真昼の法廷」

(十月に入ってからの怒涛の精神的不調のための覚書)

 

やっぱり来たね、うつが。

しなきゃいけないことをしていないことのツケが回ってきた。

うーん、これはかなりの苦しさになるね。

耐えられるかな?

裁く側が裁かれようとしている。

ざまーみろ。

「あなたは、変わろうとした、この世界に揉まれようとした、だから、揉まれる、あなたの形を変えるために、それは、按摩術のように激しい痛みをもたらすでしょう。しかし、あなたは変わる、今までのあなたではいられなくなるでしょう、それはとてもビューティフルなことです。瞑想しなさい、踊りなさい、ただ、あなたの形を変えに来た世界のつむじ風に身を任せなさい。Very good」(バグワン風の言葉)

「誰が一番仕事してるのかレース!」

「もちろん、オレ」

「しね」

メランコリックな秋にこの仕打ち。

 

今日も仕事に来ています。

現実を突きつけられたので、しなきゃいけないことをします。

でも、その現実ってなに?

ちっぽけなルールだけど、人を殺すこともできるぐらいの力はあるね。

なまんだぶつ。

パソコンの起動が絶望的に遅いので、待っている間、これを書いています。

僕の心の苦しみもわからない他の人たちが楽しそうに談笑しながら仕事をしているのを見るとため息しかでないね。

あーあ、なんで私ほど裁判にかけられないといけないのだろう?

すべては身から出た錆。

断頭台への行進は、まあ、粛々とかな。

でも、もしかしたら、一番危険な地帯が一番安全なのかもしれない。

一番おそれていたことが、唯一の希望だったりするのかな。

虎穴に入らずんば虎児を得ず、か。

これが、私が私になるための一つの契機なればいいと思います。

 

しかし、美とかに溺れて生きるってことはできないのかな?

ひたすら、自分が愛するものたちと戯れて生きていきたいと思う。

でも、すべてがビューティフルってことかな?

「ある」ことの不思議とは、世界はひたすらビューティフルであり、私たちは普段それに気づかないだけで、あとは、それを感じるだけということなのかもしれない。

この試練や取り返しのつかなさ、取り繕いなども、すべてがビューティフルなのでしょう。

じゃあ、何をすればいいのだろう?

なにもしなくていいんだろう。

ただ、私が愛することだけをすることにしよう。

ささやかな倫理。

 

夜、うたた寝をするも、とてつもなく重たい気持ち。

この心の重さを、どれだけ耐えることができるのだろう。

私が、真に変わるためには、罪を償わないといけないのだろう。

どのみち、有罪は免れないとしたら、早く断罪してほしいね。

ドロッとしたタールのような重い気持ち。

苦しいね。

バグワンなら、どう答えるのだろうか?

寝ます。

2026/10/2(金)「”ある”ことの不思議」

(考えるためのメモ帳がわりの殴り書きです)

 

美しい音楽を聴いていると心がゆすぶられる気持ちになる。

それは、私の「存在」自体をもゆすぶっているように感じる。

この音楽に溺れたい、この音楽が喚起する風景の中で生きていたいと思う。

しかし、距離をとれば、現実の私が、何も変わらない私が、そこにぽつねんといる。

この世界に、この私が、この私として生きていることの不思議。

私という存在が今ここにあることの不思議に、めまいを覚える。

音楽が呼び覚ましてくれる万能感、多幸感、官能、そういったものと、この現実の私の卑小さ、否定性、不感は、いったいどういった関係にあるのだろう?

「美」というものがもたらしてくれる「快」が、私を変容させるのだろうか?

感性の問題、感じることがもたらす私への影響と、ここにある私との乖離。

しかし、ここにある「私」も、一面的なものではないと思う。

現実的、社会的、身体的な私は、この世界の中にあって、他者や外界との関係性の中にあって、物質的な身体をともなって「ある」ということになるだろう。

しかし、名前を付けられ、輪郭を持ち、ラベリングされた私であっても、すべて受動的なわけではなく、私から世界に赴いていって、世界を変容させることができるとも思う。

世界との交渉は、まず感覚から始まると思う。

ユクスキュルの「環世界」の考え方が参考になるのではないか。

感性的独我論の世界。

幼児の世界といってもいいのかもしれない。

本能と感覚が支配する世界。

しかし、それがすべての存在の根底にあるのだと思う。

そこから、知性的な主体や、社会的な主体が立ち上がるのだと思う。

ヒューム?

または、そういった面で、マズローの欲求階層説との関連も見えてくる。

社会化した主体と感性的な自我の衝突が、長じた後の、社会の中での生きづらさにつながるのではないかと思う。

ASDの方などの、コミュニケーションの困難の一端は、ここにあるのではないかとも考える。

過敏な感覚、他者の意図を読み取ることが苦手、感性的独我論の中での生。

しかし、自閉症の方は、自閉症の方の気持ちがわかる強みもあるのではとの研究もあり、あくまで、環世界の違いという面もあるかもしれない。

また、私たち一つの存在は、碁盤の上の一つの碁石のように、その場所や、周りの石たちとの関係性の中で、その在り様が変わってくる。

社会的に固定されたと思われる主体でも、その位置は可変的であり、如何様にも変化させることができる。

今ある自分、今住んでいるところ、今ある環境、今ある人間関係、それらがすべてではなく、私は、私の存在は、何にでも生成可能であることが、ミニマムな倫理なのだと思う。

そして、「ワクワクすること」「喜び」を求め続けることが、私の存在の目標なのだと思う。

欲動、享楽?

哲学や心理学、精神分析、史学、社会学、文化人類学、文学、あるいは医学など、人間について研究する学問は、その根底に、人間の存在の究明へ向けた問いかけがあると思われる。

ちょっと、ここからは私個人のことを考えてみたい。

なぜ音楽を聴いて、「これは美しい」と感じることができるのか?

それが、私の疑問の出発点だった。

ぼおーっと、夢見るような間抜けな表情で音楽に聴き入っていた少年時代に、なぜ、これが私の心を気持ちよくしてくれるのだろうかと考えていた。

それは、子供の官能といったものとも結びついて、おそらく性的快感などへも通じるものがあったのだと思う。

そして、詩や物語を読んで感じた、言語からもたらされる官能もあった。

感性や快などと言い出したら、性の問題に行き着くと思うし、それが「存在」の大きなウェイトであるというのも事実だと考える。

やはり、フロイトはすごいという話になるのかな。

また、カントの『判断力批判』も読んでみたい。

感覚から始まること。

生理的な欲求の解消がもたらす満足。

そこから、社会的なシステムの一部であることを、だんだんと学んでいく。

エディプス、発達段階、制度、学習などを通して、快の世界から、少しずつ枠に嵌められていく。

道徳やルールを押し付けられるようになる。

もちろん、安定した世界を目指すなら、感覚だけが頼りの多形倒錯的な存在より、それぞれの社会の規範の枠によって成形された存在の方が安心だし、統御しやすいということも考えられる。

 

ごめん、今ちょっと仕事でイライラしている。

思った通りに行かないのが一番。

他者の動きが私の意に添わないのがムカつく。

そして、落ち着かない。

じっくりと落ち着いて大人の風格で余裕たっぷりに仕事しているはずの私が、ちょっとしたことにイライラして、ムカムカしていますよ。

ちょっと気になるあの人が私に振り向いてくれないのが悲しいし、みんな好き勝手に動いて私の都合などお構いなしで、私に謝罪すらしないのが歯がゆいぜ。

と、書いて落ち着いたので仕事します。

 

やっぱりうまくいかない。

怒りのあとは、それを埋めるかのような自己嫌悪。

いや、おまえの仕事しなささが原因じゃないの?

そんな仕事しかしてないおまえに、他の人を怒る資格なんてあるの?

すべてはおまえの無能と小ささが引き寄せたものだから、おまえ自身が責任を取れよ、ということなんだと思います。

なんか、めっちゃ落ち込んだ仕事終わり。

あの人は話しかけてくれなかったし。

 

帰宅。

充実した疲れではなく、徒労感。

上手くいかなかった感を引きずったままの仕事終わり。

うーん週末でこれは響くね。

これもまた「ある」の一様態かな。

 

どこまでいったっけ?

存在の不思議について考えているけど、現にあるようにあるとしたら、唯物論や現象学の領域になるのかな?

心の領域に踏み込めば、心理学や精神分析になる。

本質ってことを言い出せば哲学かな?

うーん、先に進まない。

 

今、これを書いているよ、私は。

これを書きつつある私は過去の私から未来への私に向けて、留まることを知らない進行を続けているってこと。

今考えたことも、一秒先には、違う色合い、違う意味合いを持つようになる。

そして、この時の進行は止まらない。

個人的には、その死まで、続くのだろう。

時間の経過と存在の本質。

持続ってことかな?

イマージュに取り巻かれた世界。

やっぱりベルクソンの『物質と記憶』を読まないといけないかな。

後、漱石の「文芸の哲学的基礎」も。

 

結局、あまりきちんと考えられずに今日が終わる。

祈りながら眠ります。

2026/10/1(木)「長い一日」

今日から十月。

ちょっと考えてみたいことがあるので書いてみます。

 

昨日仕事でちょっとしたミーティングがありました。

関係する外部の方々と、一時間程度話をしました。

私としては、まずまずの出来だったように思うのですが、話の中で、私の仕事に結びつくようなイベントを、私と同じような仕事をしている違う方が、新しく始めたいという話がありました。

それはとても有意義であり、とても面白そうなことでもあり、私の仕事とも重なる部分もあるし、過去には、お互い協力し合いながらイベントをしたりもしていたのですが、その新規イベントに、私は呼ばれませんでした。

もちろん、いろいろな意味があると思いますし、遠慮もあったのだと思うのですが、なんだか、自分が、それなりに一生懸命しているつもりでいた仕事でも、どこか、外部の方からすれば、そんなに頼りにするほどでもない、そっちはそっちで頑張ってねという程度のことだったのかと思われ、内心、とてもがっかりしました。

でも、よく考えると、私の今の仕事は、それなりに楽しく、やりがいをもってやっているつもりではあるのですが、本当のところ、心から気持ちを込めてしている仕事ではないように思っています。

だから、いろいろなところで話をしたり、活動をしたりしていても、どこか、ニセモノだなと思いながらしている部分があります。

そうすると、自分なりには頑張っているつもりでも、やはり、傍から見れば、こいつは本気でやってないな、上辺だけだなということがバレてしまうのだと思います。

そう考えると、ふっと視点が遠くなり、こんなことしている自分は、いったい何者なんだという気持ちになります。

美辞麗句を並べて、いかにも仕事できる感を醸し出そうとしても、きちんとした筋が通っていないことを隠しおおせるものではないんだなと感じます。

愛想笑いや、社交辞令としてのお褒めの言葉はもらえても、本当の意味での信用、信頼は得られないし、この人にお願いしようという気持ちにもならないのだと思います。

なんだろうな、こんな中途半端な気持ちで仕事をしていてもいいのかな?と疑問に思うのですが、じゃあ、辞めたところで、どうやって収入を得るの?また、このブログを始めた時の自分、休職から無職、うつになった自分に戻るの?だいたい、多くの人は、納得がいかないながらも、お金のために一生懸命働いているのに、おまえはそれが耐えられないの?体の良い言い訳に過ぎない、たんなる現実逃避じゃないの?という声がします。

「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」と孔子が言っているのに、四十代は惑いまくって終わろうとしているし、五十を目前にして今だ天命を知るよすがもない状況です。

人から、仕事の仲間外れにされたり、期待した評価が得られなかったりすると、途端に、「いや、おれがするはずの本質的な創造的な仕事はこんなものではない、今は仕方なくこんなことをしているが、やがては、本質的で創造的なことをして、生を充実させて、周りの連中が、ああ、あの人はあんなつまらないことしてたけど、本当はこんなに素晴らしい才能を持っていたんだね、ステキ、と言ってもらえるようになる」と、一人、ふつふつと考えながら過ごすことになります。

じゃあ、その本質的で創造的な仕事とはなにかと考えると、なんだかつかめそうな気がしないでもないですが、やっぱり、はっきりとつかめません。

私の心の底からあふれ出る喜びを燃料にした仕事だと思うのですが、それはいったいなんでしょうか?

今日、久しぶりにギターを弾いてみたのですが、CとかFとかコードもろくに鳴らせないぐらいの初心者ですが、たまに、ジャーンときれいなコードが響くと、うっとりとした気持ちになります。

こうした、感覚的な快を追い求めることで、何か、創造的な仕事ができればいいなあと考えたりします。

喜びから生まれた仕事!

なんて素敵なんだろう!

いまさら、とか、いい年こいて、なんて声が聞こえたりもしますが、まあ、いつまでも、可能性だけは信じて、日々の探究、鍛錬に励み、それが私を導いてくれるのを謙虚に待ち続けるのしかないのだと思います。

また、もう少し突っ込んで考えてみたいと思います。

 

朝、仕事に来てメールのチェック。

なんだか、やっぱり、虚しい気持ち。

自分の仕事が、遠い世界の出来事に思える。

ちょっと煮詰まっているのかもしれない。

最近ミスも多いし。

少し距離を置いた方が良いのかもしれません。

大したことない仕事に、どっぷり浸かって苦しむのも、なんだかなあと思う。

責任はある、私がしないと回らなくなることも今はある。

でも、私でなくてもできることだらけ。

それは、なんでも同じか。

でもね、なんか自分の仕事がしたいな。

 

と、ここまで書いていたら、12月に調査が入るとのお知らせ。

すごいね、こんなこと書いているから呼び込んだね。

普段のうのうと仕事をしているツケが回ってきたね。

なんだろうね、まあ、試練の時なんだろう。

めっちゃ逃げたいけど、逃げたら負け癖がつくので(敬遠はクセになるのでと言ったタッチの上杉達也風)、粛々と準備をしたいと思います。

 

夕方、なんか疲れた。

曇り空。

日課の玄関トイレ掃除をして、これから本でも読もうかなと思うところで、強烈な眠気。

少し寝る。

起きて、なんだか靄がかった気持ち。

違う、違う、違うよお、と心が叫んでいる。

いいか、もう一回しっかりと焦点を合わせるんだ、ゆっくりと深く息をして、肩の力を抜いて、リラックスして狙ってごらん。

取り戻したい、何かを。

さっきから言ってるじゃん、アンタはバカだって、バカはバカの人生を生きなよ。

大丈夫、なーんとかなるさ、そんなに大きな問題じゃないよ。

 

いろいろなことを考えます。

ポジティブからネガティブまで。

 

今日は、別にいつもと違った特別な日というわけでもありませんでした。

平凡な日々の中の、他と変わりない、単なる一コマのような一日。

なぜ、私の人生は、このようなシークエンスで成り立つようになったのだろう?

自己選択、自己責任と言えばそれまでだし、運命と言ってもそれまででしょう。

近眼で鼻が詰まって吃音で猫背で太っていて右肩下がりで自意識過剰で一人ぼっちで調子に乗りやすく人を傷つけて気分の変動が激しくプライドが高く度胸がなく卑怯者で臆病で小心なくせにペラペラしゃべり山っ気だけはあり他力本願で自分からは何もしないという人物像で、さて、何かをなすなんてできるんでしょうか?

この世界が一つの舞台だとしたら、この舞台で、私の役柄を、英雄でもあり偉人でもあり色男でもあり偉大な知性でもある人物として、軽やかに踊ってみたいと思います。

 

もうすぐ、この一日が終わります。

夜中から書き始めて、朝、昼、夕、夜と書き継いできて、もうすぐ日付が変わります。

たった一日。

しかし。この一日が積み重なって死への階段を昇っていると思えば、この一段一段をもっと濃密にしないといけないなとも考えます。

そう思いながらも、今日も惰性に流されて、金太郎飴のような一日、昨日とも明日とも区別がつきそうにない一日、村上春樹さんが「中国行きのスロウ・ボート」の中で書かれたような一日を過ごしたのだと思います。

本当に、何回も書きますし、もはやこれしか問いはないのだとも思えるのですが、いったい、私は何を求めるのでしょうか?

ギターとピアノを弾いて、心と会話してみても、答えはわかりません。

誰かが言っていた「好きを掛け合わせる」ということができる人生が、一番素晴らしいのでしょう。

 

なぜ、この私としてこの世に生まれたのか?

何をするためにこの世界に来たのか?

何ができるのか?

ただ、素晴らしく喜びにあふれた生を送りたい。

もっともっともっともっとって気持ちを持ち続けたいと思います。

 

おやすみなさい。